あすコロラジオ33回目をお届けします。
今日は2025年8月21日、甲子園の準決勝が行われている日です。
県立岐阜商業対日大三高の試合で、明らかにセーフだったダブルプレーの判定が物議を醸しているようですが、そんな中で改めて考えさせられる高校野球の構造的な問題について、お話ししたいと思います。
(この記事はポッドキャスト番組「あすコロラジオ」を一部AIを使って文章化したものです。番組の空気・臨場感は是非以下の音声でお聞きください↓↓↓)
🌟 甲子園で見えた判定問題と野球界のイメージ
昨日は審判の難しさについてお話ししましたが、さすがに今日のダブルプレーのファーストの判定は、どう見てもセーフでした。
テレビで見ていても、スローモーションでダブルプレーの映像が流れる時に、明らかに足の方が早くて、後からボールが入っている。
アナウンサーも解説の人も、そこで言葉を発することができない、これはどうしたものかという感じでした。
わざとではないと思うのですが、こういうことが同じチームに対して、しかも相手も強豪だから、何試合か続いてしまうと、そういう見方をされてしまうかもしれませんね。
ただ、今回の広陵高校の暴力事件もあって、野球のイメージがとても悪くなっていると思うんです。
ぼくは野球が好きだから勝手に盛り上がっていますが、多分野球で盛り上がっている人って、国民から見ると人口もだいぶ減りましたから、実際は1〜2割ぐらいじゃないでしょうか。
残りの人から見ると、やはり野球に対するイメージはあまり良くないのかなと感じます。
こういうことがまた起こると、さらにイメージ悪化に拍車がかかるという感じで、ちょっと気になるところです。
💡 トーナメント制が生み出す「過酷さの必然性」
今回の高校野球で、広陵高校の話を蒸し返したくないのですが、いろんな分析が出ていて、ちょっと面白いものがあったのでご紹介したいと思います。
なぜこういうことが起こるのか。
なぜ高校野球に限らず、運動部における上級生が下級生をいじめるとか、過酷な環境に置かれる状況がなくならないのか。
そもそも甲子園って、トーナメントですよね。
1回負けたら終わり。
負けたら終わりの戦いに必要な力って、逆境に対する抵抗力なんです。
じゃあ、逆境に対する抵抗力をつけるためにはどうしたらいいのか。
それは、普段からストレスフルな環境に身を置かせるということ。
試合以外はもう過酷な、常に緊張が研ぎ澄まされたストレスフルな環境に身を置くことによって、試合の方が普段よりマシという状況を作っておく。
そうすることで、試合で解放的になって、実力を発揮できるという考え方があるんじゃないかということだったんです。
普段からストレスフルな環境に身を置く。要は1回負けたら終わりだから。
でも、それはとても強烈ですよね。
🔍 リーグ戦との根本的な違いが生む構造的問題
プロ野球だと1年間通して130試合とか、今はもっと増えて140、150試合というゲーム数の中で、負けも考慮した上で1年間のゲームプランを立てればいい。
つまり、どこかで抜いていい局面があって、ストレスフルな緊張を強いられる場面もあれば、抜いていい場面もある。
アクセルとブレーキをうまく組み合わせながら走らせていくというのがリーグ戦だったらできるけれど、トーナメントだとそうはいかない。
1回負けたら終わりだから、もう気持ちとしては全力でフルスロットルでずーっと行き続けなければならない。
それはとてもストレスフルな環境、過酷な環境になるということです。
普段から過酷な環境に身を置くのがいいという考え方は、昔のPL学園もそうでしたし、今回の広陵高校の話も、氷山の一角だと思います。
野球関係者に話を聞くと、「そんなのはザラにある」「当たり前だ」「何を言っているんだ」くらいのリアクションの人が多いから、そういうのはやはり文化としてあるんですよね。
トーナメントだから、サッカーやラグビーなども一緒なのかなと思いますが、大会の規模と注目度から考えると、やはり野球に注目が集まりやすいということになるのでしょう。
🌱 構造を変える提案と現実とのジレンマ
高校野球は、やはり生徒の健全な育成などを考えて、リーグ戦にするといいと言っている人がいて、そこはぼくもそうかなと思います。
ただ、見ている側からすると、スリリングな1回負けたら終わりというトーナメントは、やはり見ていて面白いですよね。
見ている側がそこに面白さを見出している限り、多分このトーナメントというシステムはなくならない。
また、高校野球ファンとしてもリーグ戦でやってしまうと面白くないという感じになる。
そこがとても難しいところですよね。
見ている側の需要があるから、そういうのが起こる。
高校野球に関しては、トーナメントと暴力が必ずしも一対一に結びつくものではないと思うけれど、よりスリリングなものを求めるから、そのスリリングなものに耐えるための演じる側が求められるものがあります。
テレビ番組でも視聴率が落ちているとかいろいろ言われますが、結局、消費者がそういうのを求めるからですよね。
芸能人のゴシップなども、見る側が求めるからそうなるわけで。
その辺の見る側と演じる側のバランスというのがとても難しいなと思いながら、今回の高校野球の話も考えさせられました。
社会の縮図として見た時に、私たちが求める「スリル」や「ドラマ」が、その裏で誰かの過酷な環境を作り出している。
そういうことは、高校野球に限らず、様々な場面で起こっていることかもしれません。
消費する側の責任も含めて、考えていく必要があるテーマだと感じました。
📝 まとめ
高校野球の構造的な問題を通して、私たちの社会全体が抱える課題について考えさせられました。
トーナメント制が生み出す過酷さは、見る側が求めるスリルと表裏一体になっている複雑な問題です。
今回のポイント
- 甲子園の判定問題で改めて浮き彫りになった野球界のイメージ悪化
- トーナメント制は構造的にストレスフルな環境を要求するシステム
- 逆境への抵抗力をつけるため普段から過酷な環境に身を置く文化
- リーグ戦とトーナメントの根本的な違いがもたらす心理的圧力
- 見る側が求めるスリルとエンターテイナー側の負担のジレンマ
- 高校野球の暴力問題は氷山の一角で、業界では「当たり前」の文化
- 生徒の健全育成を考えるならリーグ戦化が理想的な解決策
- 消費者の需要が演じる側の在り方を決定する現実
- 社会の縮図として見た時の私たちの責任と課題




